top of page

過保護者のいる風景

執筆者の写真: 森徳堂森徳堂

先日、大学キャンパスを会場に行われたある検定試験を受けた。ものは試しの挑戦である。教室の私の席の周りは大学生や高校生ばかり。遠くの席に50歳台と思われる男性が1人いただけだった。


まあ、そんな話はあとにして、驚いたのは教室の外の廊下で何人もの親が待機していたことだ。試験が終わるのを待つ親たちだろう。開始前、試験官の若い男女からいくつかの注意事項が伝達され、リスニングテスト用のスピーカーの音量調整もあった。それでもたっぷり時間の余裕があり、私は手持ち無沙汰で座っていた。


そのときである。黒ぶちメガネをかけた中年女性が教室に入ってくるなり、試験官の2人に質問し始めた。試験官は戸惑いを隠せない表情ながら丁寧に答え、女性をやり過ごした。数分経つと同じ中年女性が再度、教室に入ってきてまたもや質問を始めた。女性の腕には「保護者」と書いた水色の腕章がはまっている。教室の中央列に座っている受験生の女の子に、試験官から聞いた答えを伝えている。女性の娘なのだろう。高校生らしい娘は黙って頷いていた。


大学受験だろうが、高校受験だろうが、英検受験だろうが、子供の受験に親がついてくるなんて。それだけで不思議である。どうしてついて行こうと思うのだろうか。子供はどうして親がついてくるのを断らないのだろうか。どうして一部の親は、教室に入ってきて子供に代わって質問しようとまで思うのだろうか。本当に驚くべき光景だった。


親は親、子は子。親は子供のすることに口や金は出しても直接は関わらない。子供の行くところに親はついて行かない。万が一、親が「一緒に行く」などと言おうものなら本気で断る。自分の子供時代を思い出した。友達もみんなそんな環境で育っていた。


子供の受験についてきた親たちを「過保護者」、教室の外の廊下で待機する親たちを「超過保護者」、教室に入ってきた親を「超最高過保護者」と呼びたくなった。


試験が終わって校舎を出たら、たくさんの親たちが静かにわが子を待っていた。校舎には入らない。ましてや教室にも入らない。一線は越えない親たちだった。


『このご時世、ついてくるだけなら過保護でもなんでもないのかも』。前を通り過ぎながらそう考えなおした



閲覧数:0回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Комментарии


© 2016 by Moritokudo
bottom of page