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また出た「楽しむ」発言

執筆者の写真: 森徳堂森徳堂

更新日:2024年6月17日


      (中日新聞webより)


「優勝だけを目指して、勝つことだけを考えていきたいと思ってます。前回出られなかったので、楽しみにしながら頑張りたい」


WBCに出場することになった大谷翔平の1月7日のコメントだ。大谷にとっては今回が初めてのWBC出場だから代表になれたのは嬉しいことだろう。嬉しさが満面に表れていて見ているこっちも嬉しくなる。世界的なスーパースターからそんなに喜んでもらえて嬉しくないわけがない。


だが、またもや「楽しみ」が飛び出してあーあ、である。どうしてスポーツ選手はこうもみんな楽しむ発言をするのだろう。不思議である。


もし、ほかの職業の人たちが同じような発言をしたらどうなるだろう。


岸田総理は年頭の記者会見で「日本はことし、G7=主要7か国の議長国として広島サミットを主催し、また、国連安保理の非常任理事国を務める。力による一方的な現状変更や核による脅しを断固として拒否する強い意思を歴史に残る重みをもって示したい」とコメントした。もし、このあと「議長を務めるのが楽しみ」と続けたらどうなるだろう。


間違いなくズッコケである。会見場はあっけにとられ、記者席はシーンとするだろう。笑いたくても笑えない。絶対、笑う場面ではない。それでもなんか笑える。そしてたちまちSNSはバッシングの嵐に見舞われる。


こんな人ならどうだろう。人質事件が起きたときの捜査一課長の会見だ。「犯人は人質を取って籠城している。ダイナマイトを胴にまき、拳銃を持っている。人質を解放するよう説得にあたっているところだ」。そして「犯人逮捕が楽しみ」と締めくくる。記者会見場はあっけにとられて、大騒ぎになる。


スポーツ選手だけに許される楽しむ発言のルーツを探ったら、サンスポの電子版でこんな記事を見つけた。同じように違和感を感じる人がいるのだ。抜粋で紹介してみよう。


アスリートたちの「楽しむ」発言に思う

2021/08/12 12:00


「楽しむ」というワードが大きく取り上げられたのは、1996年のアトランタ五輪だった。期待されたメダルに届かなかった競泳女子の千葉すずが出演したニュース番組で「五輪は楽しむつもりで出た」と話し、物議を醸した。(千葉は)当時20歳で2度目の五輪だった。1990年の日本選手権で自由形3種目に優勝。91年の世界選手権では400メートル自由形で銅メダルを獲得した。愛らしいルックス。人気も抜群で、当然のように取材も過熱した。ただ、注目されることを千葉は嫌った。メディアとの間にもいつの間にか壁ができた。快活だった彼女から笑顔も消えていった。

正直に言えば、選手たちの「楽しむ」発言にはずっと違和感があった。今の若い世代にとって、「楽しむ」は「頑張る」と同じ意味なんじゃないかとも思う。否定する理由は何もない。

最後に一つ。東京五輪の野球で準々決勝の米国戦に先発した田中将大は、こう決意表明した。「楽しみなんてない。国を背負って戦うわけだから」。ド根性もまだ生き残っている。(臼杵孝志)


つけ加えるとすれば、選手たちは楽しむ発言をすることで本番前の緊張を自らの力でほぐそうとしているのだろう。ほっておくと次から次に重圧がのしかかり、本場を待たずにつぶれてしまいそうになる。監督やコーチがサポートしてはくれるが、最後は自分がどう思うかにかかっている。


それなら、五輪だろうがワールドカップだろうが、「楽しんでしまえ」となる。勝とうが負けようが、楽しめたら儲けもんだ。一生に一度の経験かもしれないなら、楽しんでいい思い出を作ろう。そう割り切りリラックスして本番に臨めば本来の力を出せるかもしれない。


楽しむ発言は本人よし、国家よし、国民よし、三方よしの魔法の呪文のようである。大谷ら日本代表選手にはWBCをおおいに楽しんでもらいたい。それで不幸になる人間はひとりもいないのだから。





 
 
 

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